Firewall
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長さ1.2kmの"防火壁団地"である東白鬚アパートを一枚に収めた写真作品。団地写真を撮り始めた20年以上前から、この驚くべき長大団地を一枚に仕上げるのは夢でした。 2019年9月14日から10月20日まで開催の美術展『TOKYO 2021——慰霊のエンジニアリング』 https://tokyo2021.jp に出品した作品の、いわば作品パンフレットです。 横幅7000mmのオリジナルプリントを、横834mm×縦154mmの三つ折り冊子にしました。たたんだ状態で横279mm×縦154mmです。紙は薄めです(厚めにしたかったんだけど折りの部分で印刷が割れちゃうので)。 白鬚東アパートのファイアーウォールっぷりに関してはこちら→ https://dailyportalz.jp/kiji/150522193621 以下に美術展での解説テキストを(本冊子には同じ文章が図版と共に載っています)。
Firewall(『TOKYO 2021——慰霊のエンジニアリング』より)
1.長さ1.2kmの防火壁 墨田区の白鬚東アパートは集合住宅であると同時にファイアーウォールでもある。隅田川の曲線をトレースするようにややジグザグになりながら一列に並んだ、高さ40mの棟はすべてつながっている。その長さはなんと約1.2km。ベランダには防火シャッターが設けられており、各所に放水銃も設置されている。地震などによって周辺が大火災に見舞われた際には、シャッターとあらゆるゲートが閉じ、巨大な一枚の防火壁となって、背後の公園に避難した付近住民を火の手から守る。 隅田川沿いを4kmほど下った同じ墨田区内、横網町公園内に東京都慰霊堂がある。1923年9月1日に発生した関東大震災の際、当時被服廠跡と呼ばれた空き地であったこの場所に避難した住民のほとんどが、隅田川を背後に火の手に追い詰められ、火災旋風に巻き込まれ亡くなった。ここでの死者数3万8千人は、関東大震災の死者・行方不明者の1/3にあたる。これを教訓につくられたのが巨大ファイアウォール・白鬚東アパートである。1977年に竣工した。 東京都慰霊堂からさらに数百メートル下った場所には回向院がある。この寺は1657年の明暦の大火による焼死者10万8千人を葬ったことから始まり、後に安政大地震をはじめ、ほかの災害・事故による死者、また刑死者などの無縁仏も埋葬するようになった。白鬚東アパート、東京都慰霊堂、回向院。隅田川左岸には災害にまつわる建造物が集中して並んでいる。この川を下ることは、東京/江戸の災害の歴史を遡ることでもある。 2.災害という「作者」 日本の建造物には、設計者・施工者のほかに「作者」がいると思う。災害という作者である。台風、地震、火災、水害、戦災。大きな災害が発生すると、その教訓が新たな技術・工法、 法・基準といったものに反映され、次代の建造物に埋め込まれる。およそぼくらが東京で目にする建築・土木構造物の全ては、災害という「作者」によってつくられている。 1924年に市街地建築物法に導入された耐震規定は関東大震災の被害を受けて制定されたものだ。そして1943年鳥取地震、44年東南海地震、45年三河地震、46年南海地震、48年福井地震、と1943年から48年にかけて千人以上の死者を出す地震が5つも発生した。もちろんその最中に日本中の都市が空襲の被害を受けている。敗戦1カ月後の1945年には枕崎台風、そして47年にはカスリーン台風が東京を水没させ甚大な被害を与えた。新たな建築基準法が制定されたのはこれら立て続けに起こった災害の直後1950年だ。その後1964年の新潟地震、68年の十勝沖地震の後71年に建築基準法の改正があり、さらにその後78年の宮城県沖地震を経て81年に大きな改正が行われ、95年の阪神・淡路大震災の後にも「2000年基準」と呼ばれる改正が行われている。 つまり東京の都市風景を見るということは、災害を見ると言うことなのである。しかし、そうやって見ることは難しい。建築は災害という「作者」を内部に抱えていることを意匠によって隠そうとするからだ。それに比べると、堤防や防潮堤、高架の梁と柱など土木構造物の場合は、「作者」をむき出しに見せているように思える。20年以上にわたって世界中の団地を撮影してきたぼくは、団地は建築と土木の間に建っていると考えている。白鬚東アパートはその分かりやすい例だ。 防災インフラは過去に起こったのと同様の災害が発生した際に被害を防ぐためのものである。事実、例えば現在の江戸川区の水害対策はカスリーン台風の被害を元にしている。50年前の台風を教訓にせざるを得ない理由は、それ以降東京で大きな水害が発生していないからだ。これは土木構造物がちゃんと機能していることの証明であるが、一方で災害の可能性を「忘れさせる」ことを目指しているとも言えないだろうか。防災インフラが優秀であるが故に、中小規模の被害は発生しなくなり過去起きたことのない大災害のみが発生する。皮肉なことにこうしてぼくらは災害を忘れ、被害者を忘れてしまう。 災害という「作者」をもつ建造物は、慰霊碑として見ることが可能なはずだとぼくは思う。白鬚東アパートに沿って歩くたびに、ぼくは巨大な慰霊碑を巡っているように感じる。 3.ふたつの十字架 東京都慰霊堂と白鬚東アパートにはある興味深い共通点がある。それは「十字架」だ。東京都慰霊堂は、1930年に関東大震災の犠牲者を祀る「震災慰霊堂」として建設された。後に東京大空襲による身元不明の犠牲者も合祀するようになったため現在の名となる。約163000体の遺骨が安置されている。園内には、悪質なデマを発端として命を奪われた朝鮮人を追悼する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」もある。 慰霊堂の建築の特徴は、コンクリート造でありながらてりむくりの効いた日本風の外観にある。設計・デザインを手がけた伊東忠太らしい造形だ。ちなみに、この慰霊堂の設計にあたってはコンペが催され若手建築家前田健二郎によるモダンなデザイン案が一等に選ばれたが、これにいちゃもんがつき、最終的にコンペはご破算となってしまうという経緯があった。メディアを巻き込んでの騒動となったこの一件は、先頃の新国立競技場の顛末を彷彿とさせる。これに決着を付けたのが、伊東忠太によるデザイン案である。コンペの審査員であった伊東が設計してしまったことは問題だと思うが、ここではそれについては置いておこう。 奇妙なのはその内部だ。左右に列柱がある天井の高い左右対称の空間。正面に祭壇があり、ディテールは仏教建築を思わせるが、中心を通路が貫き、その左右にベンチが並ぶさまは完全に教会の構成だ。左右の柱の後ろには教会の側廊としか言いようのない空間があり、そこには震災と戦災の様子を描いた絵画が、まるでステンドグラスの代わりのように並んでいる。伊東忠太が教会を模したのは平面図を見ても明らかだ。完全に十字架のレイアウトである。伊東がどういうつもりで設計したのか、また、モダンすぎると前田案を却下した施主の東京市がなぜこのような奇妙なデザインを受け入れたのかは謎だ。 白鬚東アパートの「作者」のひとつは、竣工の13年前1964年に発生した新潟地震である。同じ時期に地震学者河角広の「大地震69年説」が発表され、関東大震災後半世紀経ち高度経済成長を謳歌していた東京都民に大きなショックを与えた。こうした状況を背景に、白鬚を含む、隅田川と荒川に囲まれた江東デルタ地域に防災拠点整備が計画される。この計画の元になったもののひとつが、高山英華が1966年に発表した「十字架ベルト構想」である。これは墨田区と江東区、江戸川区の一部をあわせたエリアに、幅500mの帯を東西南北に文字通り十字架のようにレイアウトし、そこに避難地となる施設とオープンスペースを配置する構想である。白鬚東アパートと東京都慰霊堂。関東大震災を記念するふたつの施設が、十字架という象徴的なレイアウトに関連している。 最後にひとつ。白鬚東アパートには水神さまへ向かう参道が「壁」を貫いている部分がある。これだけ強固なファイアーウォールとして存在しておきながら、この「ほころび」。とてもキュートだ。